CAN、MAYが、MUSTに置き換わるということ
 企業では、売上が激減しているようなときは、経費圧縮を掲げる管理部門が力を発揮し、発言権を強めてくるでしょうし、売上を急速に伸ばしている時は、営業部門がはばをきかせて発言権を強めていくことになります。これは、あたりまえのことと言えば、あたりまえのことになりますが、これを世の中にあてはめて考えると、昨今の状況は、前者、つまり、管理面が幅をきかせ過ぎる傾向にあると感じることが多くなっています。
これは仕方のない法則ですが、しっくりこない、腑に落ちないという声が増えていっている気がしています。何も悪いことをしているわけではないのに、義務が増える、負担が増える、本業より管理面の経費負担が増える。ふつうに振舞っていることさえも説明責任が求められる。そんな時代に進んでいるということでしょうか。アクセルとブレーキどちらもなくてはならないものですが、踏みすぎは避けなければならないし、バランス感覚も大事です。適度なあそびも必要なのです。
どの部門も責任を持ちたくないから、責任逃れの領域を確保するために、自己の保身のためきちんとしているだけのこととしたら本末転倒となります。これでは、一番、犠牲になるのは、どちらかというといろんな面で弱者とよばれる人に集中するということになるのではないでしょうか。
いずれにしても、主導権を握る側に現場感覚がないと、いろいろな場面において、手段目的が逆になることにもなりかねないということです。つまり、弱者を守るためという目的であったはずが、結果的に弱者を苦しめることの方が増え、弱者が今以上に弱ってしまうということに繋がってしまい、結果的に弱者を救えなかったということが発生してしまうのです。しかし、やってることは正義であり、社会的には許されてしまうという不思議な構図で成り立っているということでしょう。まさに、「○○してもよい」や「○○することができる」が、いつしか、「○○しなければならない」に置き換えられて管理されていることに、誰もが気づかされることが多くなったということでしょう。「〇〇しなければならない」としつつも、「○○してもよい」や「○○することができる」へ逆に置き換わるような時代になっていくことを願っています。
いつの時代も、このような荒波を乗り越えて進み続けなければなりません。
様々な矛盾や不合理なことに対して、「ストレスを感じない。」という能力も、また、生きる上で必要な能力ということにもなります。


行政書士中川まさあき事務所のホームページ